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カルマとチャクラと修行

2012.7.20 リーディング No.12984

質問:カルマはどこに存在するのでしょうか。カルマを作ってから、それが解けるために発動するまでの間、どこに潜伏し、どんな影響を及ぼしているのでしょうか。また、チャクラの肯定面と否定面、前世と成長・修行・覚醒の関連性についても述べてください。

ソース:インドの宗教と哲学は、すべてではないにしても、その大半が「業」「輪廻」「解脱」、この3つのタームを求め、それらを軸に論じられ、追究され、実践されています。インドで発祥した仏教もその例に漏れません。ただ仏教の場合、「無常」「無我」を説き、「縁起」と「空」を真理と見なしているため、インドで正統的なバラモン教やヒンドゥー教のように、輪廻転生をする主体を認められず、苦心することになりました。

人間を含めた有情、すなわち生きるものは行うことや思うことでカルマとなり、カルマによって輪廻転生する、それが苦しみやままならぬ実態を招く元である。そのカルマによって輪廻転生しなければならない。苦しみから解放されるためには、自分のカルマを自覚し、受け止め、カルマと輪廻から脱却することが是非とも必要である。それが実現した時が解脱であり、仏教で言う涅槃の境地である。このように大筋としては捉えています。

古いカルマを果たすこと、新しいカルマを作らないこと、この両方が求められます。自分が行いや生活の営みを通して、生み出したカルマが自分を作り、自己規定している。カルマは生存の元である。自分の状態も周囲の状況も、カルマの反映である。それゆえ、自分の生命状態にしても、周囲の状況や境遇にしても偶然ではなく、自分の責任である。自業自得である。

カルマの影響は、1、自分の身心などの状態を決め、作る、2、自らのカルマによって周囲に働きかけ、影響を与え、カルマの関わりを作る。この両方があります。そのことを知って状態や状況を受け止め、それに対して誠実に適切に応じることで、カルマが果たされ、大いなる存在との関わりで、遂にはカルマを超えて解脱し得る。その時に輪廻転生も終了する。そのように捉え、修行や戒律を守ることに専心します。

自ら作ったカルマが、輪廻転生の元にあり、カルマが顕在化するまでは、どこかにそれが溜まっていて、存続する。それが時期が来た時に顕在化するが、それによって解けていく、ということです。このような考えに立って、インドの宗教や哲学では、輪廻転生の主体でありカルマの受け皿として、霊魂を認めました。

輪廻転生の主体であり、カルマを溜める所にもなっている霊魂は、いろいろに表現されたり、定義づけられています。しかしさまざまに説かれても、輪廻転生の主体である自我を認め、そこに作ったカルマが保存されて、時期が来た時現れ出るという点では、ほぼ一致しています。作られたカルマがどこかにないと、維持存続し、時期が来た時発動することは考えにくいからです。

しかし仏教では釈尊の悟りとして、「諸行無常」「諸法無我」「一切皆苦」「涅槃寂静」を説き、縁起が真実であることが強調されました。そのため、自我というものも縁起性のものであり、後の大乗仏教で言う「空」であるため実体がなく、固定した存在とは認められません。「では、どのようにして、人は輪廻転生できるのか。またその際、輪廻転生を引き起こすカルマは、どこに保存されているのか」。そのことが釈尊以降の仏教の中で、理論的に、また実践的に追究されていきました。

普通に見ると、輪廻転生することと、無我であり無常であることは、矛盾ですが、このような物の道理を悟らず、受け入れず、迷妄(めいもう)によって自分や何かに囚われ、執着し、カルマを生み出し、苦しみを招き、転生しているのです。仏教では「無常」「無我」を説いているので、輪廻転生自体を認めないのか、あるいは輪廻転生は認めるけれども、輪廻転生の主体である自我や霊魂を認めないのか。そのあたりで釈尊以降の部派仏教において、さまざまな論議があり、説一切有部、経量部などのいくつもの学派が現れました。

しかし、僧院に引きこもり、在家の信者たちによってサポートされ生活が保障された専門の学問僧侶は、本当の体験や生活の苦しみがなく、理論のための理論に陥っていきました。

そこで龍樹(りゅうじゅ)が現れ、縁起を「空」として説き直し、仏教の原点である「縁起」と「空」、そして大慈大悲の菩薩行のほうへと向け始めました。専門の僧侶も必要だけれども、家庭や仕事に立脚して在家の者として生きることが、奨励されたのです。龍樹は「空」に関しての理論を極めました。すべてに実体がなく、互いに支え合って初めて成り立つことが、改めて強調されたのです。また、利他行の大切さが、確認されました。

ただ、輪廻転生とカルマを担う実体らしきものに関しては、龍樹はあまり触れませんでした。それは龍樹の関心ではなく、使命ではなかったからです。そのため龍樹の中観(ちゅうかん)派のあと、唯識(ゆいしき)思想が現れました。無著(むちゃく)と世親(せしん)が弥勒、マイトレーヤの説いたところと、華厳経の「三界(世界)はすべて心の所現なり」の述べるところに従って、唯識思想を展開しました。輪廻転生の主体としてのアーラヤ識が追究されるようになりました。深層心理です。

しかしやはり唯識も、仏教であることに変わりはないため、アーラヤ識も実体のない「空」でなければなりません。アーラヤ識という深層意識の蔵(くら)があり、そこにカルマが保存され続けます。そこに良い種を蒔き続け、カルマと拮抗させ、しばらく共存しながら、次第にカルマを殺菌し、食い尽くしていきます。こうしてアーラヤ識がきれいになります。それが修行です。

その中で人間の心や生命存在の成り立ちを理解し、道理をわきまえ、物事に囚われず、すべてが「空」であることを悟りつつ、アーラヤ識にも囚われないようにします。そして最後は、アーラヤ識自体も囚われるほどの自我ではないことを見定めて、アーラヤ識自体も消滅します。それが涅槃の境地です。究極的には、自我や霊魂も空であり、実体がないもので、絶対者の中に還滅するべきものなのです。

このように唯識は大筋として、アーラヤ識を軸に、「業」「輪廻」「解脱」について説き、その方向で実践されました。唯識のあとは密教が現れ、神秘的な面をインドのヒンドゥー教から取り込んで、密教が仏教の最終形態として最後にインドで展開されました。それはチベットに移行して、さらに追究されていきました。

アーラヤ識にカルマが保存されている、それが後期仏教の理論的な説明でした。次の段階の密教では、仏性や真我を積極的に認めるようになりました。インドの正統的なヒンドゥー教の影響です。そして解脱するために、神秘的な手法を盛り込みました。宗教儀礼が盛んに行われるようになったのです。マントラを唱えたり、印を組んだり、護摩を焚いたりするのは、そのためです。

一方、インドの中のサーンキヤ哲学を基としたヨーガの行が古くから行われていました。二元論であり、同時に一元化する試みでもありました。そのヨーガの中ではチャクラが説かれていました。仏教で説くアーラヤ識は、細かく見ていくと7つのチャクラなのです。それは人間の感情を主とするアストラル体より奧の、理性を主とするカラーナの次元に属します。その7つのチャクラに、実際はカルマが保存されているのです。

その人の作ったカルマが、その人の原因となる一番元の体と心に保存されているのです。それがカルマの種類に応じて、7つのチャクラにそれぞれ保管されています。どんな種類のカルマなのかによって、7つのチャクラのうちのどのチャクラにカルマが保存されているのかが決まります。人が個人であるうちは自分を保ち続け、輪廻転生します。自己保守の利己性が、すべてのカルマの基にある悪性なのです。

カラーナは個人の最も清らかな原因となる存在です。しかしまだ存在であるのです。その個人を解脱したら、個人のカルマから解放されます。それがプルシャのレベルです。神々のレベルです。さらにそこを脱し超えると、唯一神、宇宙創造神のレベルです。ONEです。そこまで行くと個人のカルマばかりでなく、家系のカルマ、土地のカルマ、さらには地球と人類のカルマも解脱します。

こうして本当の自由が得られ、宇宙創造神と一つになって最終的な解脱が起きます。無余依(むよえ)涅槃が死後実現します。ONEの境地です。そこへ向けて一人ひとりが根本神に育て導かれているのが、輪廻転生です。その方向でこの摂理を知って、それが叶うように自分でも努力するのが修行です。普通に生きていると、俗世間で自我中心に生きるため、カルマを生み出し、それが自己規定となり、苦しみや災いを招きます。その対極として、カルマの代わりに利他的な生き方の修行をするのです。

生命の営みが業(ごう)となるか行(ぎょう)となるかの違いです。ONEの営みとしての超作は、カルマを果たすばかりでなく、カルマ自体を超えていく道です。創造神との関わりで、自我を捨てていく営みが超作です。それによって個人としてのアーラヤ識、カラーナ体も解脱する時が来ます。偏(ひとえ)に神の働きかけによるものです。他力、全託と献身、利他行によって叶います。

それにはプロセスと段階が必要です。そのために輪廻転生しながら神に導き育てられ、本人もこの法則と神の意図を知って、この方向で行をしたり精進します。チャクラにはカルマの種類に応じて、それぞれのチャクラにカルマが保存されて、チャクラの状態を規定しています。これがチャクラの否定面です。

第1のチャクラには自己保守と利己性のカルマが、第2には本能と無意識の衝動と性欲のカルマが、第3には食欲と感情面のカルマが、第4には愛と行動と支配力のカルマが、第5には意志と意欲のカルマが、第6には知識と理解と自負心のカルマが、第7には宗教と信仰と逃避のカルマが、保存されています。

一方チャクラの肯定面があります。チャクラの肯定面とは、前世からの修行や生き方や思い方が良いものの場合、チャクラを浄め発達させ、目覚めさせ、チャクラを良い状態に作り上げていることです。前世での修行や生き方、程度、目覚め具合が、実際にはその生命体のチャクラの状態に表れているのです。良き性質と能力として。

チャクラは身体の状態や構造を規定しています。チャクラは肉体の次元では自律神経と内分泌腺に相当します。実際、人が母胎で作り上げられ誕生してくる際、内分泌腺のホルモンによって、健康状態や外見、体の構造が規定され、方向づけられています。これは人が前世での思い方や生き方やカルマによって規定されていることを表しています。

さらに前世での修行の度合、覚醒の度合、成長の度合がチャクラに肯定的に反映しています。美しい体、健康な体、均整の取れた体、発達した体と精神と能力、適性、そういったことがチャクラを通して体や人格や能力や適性に反映してくるのです。チャクラの状態を通して、直接には内分泌腺のホルモンの働き具合で、どんな人格でどんな体つきや健康状態の人として、どのぐらいの器や能力や程度の人として出てくるか。それが、チャクラの否定面と肯定面の双方によって規定されるのです。カルマが現れ出て規定されている、また修行の度合も、チャクラを通してその人柄や程度や器や外見に現れ出てくるのです。

アーラヤ識と同様に、チャクラの中にカルマが保存されていますが、そこに良い種を蒔き続けること。良い思い、良い考え、良いカルマをチャクラに溜めていく、行と戒律を守ることによって、次第にチャクラの中で良い質のものが優勢になってきます。それに応じてその人の体の内実も造りも整い、健康で美しくなり、体も精神も霊性も発達してきます。

心も人格も能力も、そしてその人の思いも、良いほうが優勢になってきます。そして遂には善玉が勝り悪玉が解消し消滅します。それに伴い身も心も霊もきれいになります。それがカラーナの次元の完成です。それによって生まれ変わってくる必要はなくなってきます。しかしまだ個人としての存在を保持しています。その上のプルシャの段階に行くためには、個人を否定し捨てなければなりません。それが次の解脱です。解脱にも段階があるのです。

カルマの解消にも、解脱にも、悟りにも、段階があるのです。そのため人は何度も生まれ変わり、神に育て導かれ、自分でも教えを学んで修行し、利他行に励み続けます。個人を解脱した時、自分ではなくなり、自己存在を超えます。それが個人の輪廻転生の終わりであり、消滅です。こうしてプルシャのレベルに至ります。ここで個人の輪廻転生が終わります。ここまで来れば輪廻転生だけでなく、天界に行っても、個人というものではなくなります。それがプルシャのレベルです。

さらに進化して神々のレベルも解脱した時、宇宙創造神と融合し一つになります。一つになるのですから、自分というものはありません。それがONEという最終境地です。キリストやブッダはそこにまで到達しました。

ということで、チャクラが良い状態になる、きれいになる、汚れがなくなる、カルマが解消する、それがカラーナの完成ですが、それで終わりではなく、自分の存在自体を脱却しなければなりません。その時はチャクラもなくなります。アーラヤ識がなくなるように。チャクラはあくまで個人の生命体の中にあるものだからです。

しかし梯子(はしご)のように、目標のために必要な途中段階です。仏教のたとえなら筏(いかだ)です。川を渡り此岸(しがん)から彼岸に渡らせる筏です。まずチャクラをきれいで良い状態にすること。それが良いカルマを増やし悪いカルマを減らし、進んで良いことをし悪いことを控えること。そのようにして自分が整って来ますし、周りの状況も良くなってきます。そのために人々や自然のために良い働きをします。しかしそれではまだ良いカルマを作って、悪いカルマを解いたり、控えているレベルです。

最後は、良いカルマも悪いカルマも果たし、それらをすべて超えなければなりません。そのためには超作しながら自分をなくし、精進します。それによって自分の存在自体が消滅し、まず神々と一つになります。そしてそれをも捨てて、最後は創造神と一つのONEになるのです。そのために全託と他力が役に立ちます。それだけの完全な信仰と愛が求められるのです。

神さまは悪いようにはなさりません。目に見えない、すべての宗旨宗派を超えた、しかもすべての宗旨宗派の元にある、さらに宗教さえも超え、すべての命と愛の元の根源に委ね、根源との関わりで今目の前のことに超作で取り組んでいくことで、次第に浄化され、進化が促されていきます。順々に存在の殻を破り、開かれた生命になっていきます。それに応じた状態や境遇になってくるし、それに応じたポジションや仕事や働きになってきます。神がすべてを計らわれることでしょう。

今ある所から出発してください。今ある状態や状況は作り上げられてきたものであると同時に、与えられた、今の自分にふさわしい最善のものです。それを知って受け止め、現状に立って目の前のことにベストを尽くすことです。その中で着々と、今説明されたことが起き、育て導かれていきます。またプロセスも大切にし、焦らず歩んでいくとよいのです。

リーディングを終了します。

(ありがとうございました)〈了〉

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Reader:ヨハネ・ペヌエル

浅野 信
新時代がすでに始まっています。このコーナーでは、ARIのオリジナル・リーディングのうち、時事の問題や未来予測に関するものを特にピックアップして掲載しました。

目的は、新時代の留意点を述べ、その方向性を示すことです。内容には、いわゆる「予言」も多少含まれています。

「予言」と言いますと、世間一般では、どうしても暗くて恐い、人々を威嚇するような否定的予言が多いのですが、真の予言はそうではありません。

私が世に示したいのは、希望の指針です。“どうなるか”という予測や透視的診断よりも、“どうなると良いのか”、“そのためにはどうすると良いのか”といった対策です。さらには、その際の心構え、知恵、それ以上に思いやり、配慮の大切さなどについてです。

これは難題や厳しい現実に目をつむったり、軽く捉えることではありません。むしろそれらをさえ生かす方向で意欲的に取り組むことへのお勧めです。

今のような難しい大事な時世に、このメッセージ・リーディングをご自身のため、また愛する大切なご家族、友人、さらには社会のために、どうぞご活用ください。