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出来事メッセージ 

2012.8.17 リーディング No.12998

質問:ARIでは、「出来事メッセージ」「出来事言語」と言われます。メッセージは言葉ではないのですか。出来事言語とは何ですか。なぜ出来事がメッセージなのか、わかりやすくお話ください。また、カルマの解き方も教えてください。

ソース:あの世もこの世も直接には、そこに住んでいる霊たちや人たちがいろいろと思ったり、実際に行ったりして動かし、作り上げています。そういった生き物たちの想念や、実際の行いが現実の動きを創り出し、カルマ的にその結果を招いて、それを身に受けていく。そういう動きが現実というものです。

しかし、それだけではなく、あの世もこの世も、一番の基では神によって創造され、司られ、それぞれの霊たちや人たちが神さまによってそれぞれが作ったカルマにより、指導され、鍛えられ、育て導かれているということで、現実が動いているのです。一番の基で、創造された神が霊的現実も物的現実も管理し、それぞれが作ったカルマをうまい具合に使って、間違いに気づかせ、正させ、成長を促し、カルマを果たさせ、根源へと導かれている。そういう中で、いろいろな事が起きてきているということがあります。

それゆえ現実に起きてくることは、それぞれの霊たちや人たちが思ったり行ったりしてカルマ的に招いている、必然的な自業自得の顕れです。それとともに霊的には、一番の元で神が管理し教育し、愛をもって育て導くということで、起きてきていることなのです。あの世にもこの世にも、一番の基に神がおられ、神のご意志によって司られている世界です。そのため、起きてくることは一番の元では神に基づくものです。教育の一環として、神からの意思表示になっているのです。

それぞれが作ったカルマを用いて、神が全体を管理し、関与して鍛え上げ、育て導くということで、事が起きてきています。人間が置かれた世界は、この世もあの世も命に満ち溢れた生きた世界です。一番の基には神がおられる神の世界です。それゆえ、その中で起きることは意味があり、意図されています。現実に起きることの一番の基には神がおられ、神が意思表示として人間の為を思って事が起き、与えられます。

現実に起きることは、自分が招いたカルマ的結果であると同時に、そのカルマさえも神さまの設けられた法則に従って動いているため、自ずとカルマを通して神からのお手入れが加わり、神さまに育て導かれるということで、個別教育がその時その時一人ひとりに施されています。実地の体験学習の場です。

学びは知識的なものに限られません。むしろ最も効き目がある本来の学び方は、体験学習です。しかも、一人ひとりが自分で思ったり行ったことを、自己責任の下で受けるという結果を身に受けることで、責任を果たさせる、そのようなしつけ方です。本人が招いたものをもって気づかせ、正させ、育て上げ、導いていくという体験学習になっています。そういうことで、いろいろと起きてきます。

起きることはただ起きるのではなく、自らのカルマによって引き起こしているし、教師としての神の実地教育として与えられて起きてくることにもなっているのです。「わかってほしい」「気づいてほしい」「学び取ってほしい」「改めてほしい」「これからは正しく行ってほしい」、そのような切なる願いが起きることには込められています。

愛の鞭によって叩かれ、鍛え上げられ、正され、責任を取らせる、そういった状況や機会になって現実が動いています。現実の動きには意味と理由があり、神の愛が息づいています。そのため厳しい試練に見舞われた時、神の鞭で叩かれたような感じであり、「痛いけれどもあったかい」、そのような熱き愛が感じられ、教育的効果があります。そこには「良くなるように」という期待が、痛みに込められているのです。

一番の基では神が起こされることですので、絶妙で効果的で正統的で、非合理ではありません。非合理に見えるのは、自分たちが作ってきたカルマの全部を自覚していないので、「割に合わない」と見えたり、「原因がないのに」と思えてしまうのです。必ず原因、理由、縁、目的などがあって事が起きてくるのです。理由も原因も縁もないままに、事が起きることはありません。 

「なぜこういうことが起きねばならないのか」。そのように割に合わないと思えて、事態を認めたり受け入れたりできないというのは、自分の認識の限界に対する反省が足りないからです。実際は自分が見落としている部分も多いのです。また見えている部分も、偏って主観的に自己都合で捉えている、甘いものがあるのです。そのためなかなか納得できず受け入れられない、また現実にも対処したがらない、ということです。

現実に対処することでカルマも責任も果たされ、事が解決へと向かいます。嬉しいことでも悲しいことでも、実現したこと、現実に起きたことは、必ずそれなりの原因と理由と必要性と目的があったからこそです。

逆に嬉しいことでも悲しいことでも、期待したことでも、心配していたことでも、起きないままに終わったことは、起きるだけの条件が揃っておらず、起きるような原因や縁や理由や必要性や役目がなかったから、嬉しいことも悲しいことも起きなかったのです。期待していて起きないこともあるし、心配していて起きず仕舞いのこともあります。逆に期待していてその通り実現することもあるし、心配していてその恐れの通りに起きてしまうこともあります。

いずれにせよ起きたり起きなかったり、実現したり実現しないままだったりということには、必ずそれ相応の意味や理由や因果の法則の必然性に則(のっと)ってのことです。 人間は見落としている部分や主観的に見ている部分があるので、「なぜこうなったのだろう」「なぜ起きなかったのだろう」あるいは「なぜ起きてしまったのだろう」というように、現実の動きに納得できず、受け入れられません。対処もしたがりません。それでは成長せず、カルマが果たされず、現実も好転しないままです。

必ず、因果の法則に従ってそれ相応のことが起きてきているのです。自分の認識や実感や意見を完全に正しいと思わないことです。現実を動かしている法則のほうが正しいのです。自分の認識や実感のほうが足りないのです。そこにずれが生じ、現実を認めがたい、受け入れたくないということが起きます。出来事で試され、成長を求められているのです。

現実を認め受容しないとカルマが果たされず、責任も取れず、現実の問題が解決しません。また起きたことの本当の恵みや賜物(たまもの)ということの意味も洞察できません。自分の実感より現実に起きていることのほうが正しいのです。

ここで「現実に起きることが正しい」という場合、「間違っていることも正しい」という意味ではありません。なぜなら現実に起きる事は、不完全な人間たちが招いているから、間違ったことも多く起きてきているからです。ただそのように間違ったことが現実に起きてくることも、必ず理由や原因があって法則に沿って起きてくるという公正さの意味で、「正直で正しい」と言うのです。

ですから問題なことやつらいことが起きても、必ず原因があってそれ相応のことが起きたという意味では正しいのですから、責任を取るためにも、そして現実の問題を解決させるためにも、「これは法則に沿ってこうなってきているのだから」と認識して、現実を受け止め、そして責任を果たすべく対処していかねばなりません。それでこそカルマが果たされ、その中で成長を遂げ、現実も整い、前に進んでいけるし、周りの為にもなっていけるのです。

メッセージというと、言葉だとほとんどの人が思い込んでいます。確かに人間にとって言葉は大事であり、言葉によってメッセージが伝えられるということが主になっています。リーディングはその最たるものです。でも一歩退いて見直すと、人間のコミュニケーションにしても、また神さまとのやり取りにしても、言葉ばかりでなく、むしろ言葉以前のコミュニケーションややり取りが根本であることに気づかせられます。

テレパシー(Therepathy)とかボディー・ラングィッジ(Body Language)などの面もあります。無意識のうちのやり取りや影響の及ぼし合いもあります。言葉にならない部分のやり取りがあります。人間の言葉で全部尽くされるわけではありません。

リーディングは言葉によるメッセージの典型です。古代イスラエルの預言者も、「神のお言葉を預かる者」と書きます。古代においても言葉が重要だったわけです。ヨハネによる福音書にも冒頭で、「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。言葉によってすべてがなった。それによってできなかったものは何一つなかった。この言葉に命が宿っていた。それがイエス・キリストである」。このように伝えられています。

ただこの場合の言葉というのは、日本語とか英語とかフランス語とか中国語とか、そういう具体的な人間の言語以前の原言語、あるいは法則とか神のご意志のことなのです。ロゴスです。真実や知恵のことです。創世記にも「神が『光あれ』と言われた。そうすると光が生じた。」などといったように、神が思うことで、また命ずることで、そのとおり現実が動いたと書かれています。これが「出来事メッセージ」であり、「出来事言語」、「ロゴス」です。

メッセージは言葉以前に、動きとなって現れます。人間の場合でも、思いが自ずと態度や行動となって現れ出ます。態度や行動は内側にある思いの表れです。また動機や意図の表れです。思いは必ず表に現れ出て、それ相応の行動を起こします。その元にある言葉に翻訳される以前の、思い、気持ち、動機、意図、願い、それが原言語、すなわちロゴスであり、出来事言語です。

思いが自ずと行動や言葉となって表れる、それがメッセージです。神さまの場合はなおさらです。神さまの思いや願いや意図や期待が、おのずと現実を動かし、現実の動きに現れ出ます。現実を一番の元で動かされているのは神です。そのため現実に起きてくる事は、みな神の思いと意図の表れなのです。神の思いの表れですから、メッセージなのです。 言葉は後のことです。言葉で伝えたり、起きたことを説明したり解釈したり、理解をもたらすのは後からのフォローに相当します。

神の場合、思ったとおり、言ったとおりに、現実がなります。思うことがそのまま実現するのです。それで、実際に起きたことが真実であり、メッセージになっています。だから、起きたことを喜び、素直に受け入れ、囚(とら)われず、そこを通り抜けていくとよいのです。それによってカルマが解消し、現実の問題が解決し、前に進めます。

神は現実を創り、現実を一番の基で動かし、導き、現実の中に息づいておられます。人間も、成長し、親である神のように思いと言葉と行いが一つになり、愛と真実とも一つになるほどに、思ったり行ったり言ったりすることが真実になり、現実にもそのまま実現してきます。カルマも解けてきます。

ARIでは、言葉でリーディングや講話や一言メッセージを伝えているから、バランスを取るために、「言葉以前に出来事こそがまずメッセージだ」と言うのです。

カルマを解くためには、理解、受容、許し、祈り、癒し、愛などが必要です。一方、カルマを果たすためには、現実に適切に真心で対処すること、責任を取ること、罪を償うことなどが必要です。八正道、利他行、奉仕などが効果的です。いずれの場合でも、神との関わりで、お力を頂きながら、成長することでカルマは解決します。

インドの仏教の歴史では、空(くう)を説く中観(ちゅうかん)思想において、言葉の限界に気づき、言葉で真実の全てを尽くされないことが知らされました。次の唯識(ゆいしき)思想では、心の思いが現実に現れ出ることが明らかにされました。それらの反省に立って再び、原言語としての生きたロゴス、生命の元が真言(しんごん)――マントラとして登場したのです。そのため神の真実の生きたお言葉をお唱えするという真言が、使われるようになったのです。

ヨーロッパではラテン語があります。それ以前にはイスラエルのヘブライ語があります。インドにはサンスクリット語があります。日本には神代(かみよ)文字や神道などで使われる古(いにしえ)の表現があります。そういったものが原言語に近い、神さまが使われるお言葉を表します。言霊(ことだま)があります。それによって宗教の儀礼などが行われ、神と交信します。

しかし現代の日本語を使っても、真心と真実の思いから語れば、必ず神に聞き届けられ、通じます。そのような愛と真実の真心の言葉が生きており、原言語であり、出来事言語です。それがヨハネによる福音書のロゴスです。

言葉というならそのような言葉が、祈りによって使われ、また神からも伝えられてくる出来事言語です。そして神さまは現実を動かされ、起きる事は全部神さまからの意思表示であり体験学習のお手入れになっていますから、日本語という以前に、まずもって現実に起きてくることが神の意思表示であり、現実の動きがメッセージなのです。そのように大きく本質から捉えてください。

英語は記号言語的です。コンピュータやインターネットを動かしているのは英語以上に記号言語です。数学的です。そうするとますます、命や心や真実がそこには宿りにくいです。言霊になりにくいと、現実を動かす力が小さくなります。真心から、愛と真実に沿って伝えれば、言葉にも魂が宿り、現実を動かす力となります。また、実際の行動が伴ってこそ本当です。人間にはそこまで伴わないため、思ったり言ったりしたとおり現実が、なかなか動いてくれません。「こうなる」「こうなってほしい」と、言ったり予想しても、そのとおりになりにくいのです。

言葉と思いと行動が一致するほどに神の有り様に近くなり、思ったら現実がそのとおり動くし、自分の思いをそのとおり行動に移すようになり、口で「こうだ」と言ったら、そのとおり現実もなってくる。それが神さまのあり方です。超作です。実際に起きたことが真実であり、メッセージです。

人間が未熟なうちは、言葉と思いと行動と現実の動きが分離しています。霊的成長を遂げ、神と一致するほどに、それらが一つになってきます。そうすると思いや行いや言葉が、そのとおり現実を動かすことになってきて、一致するのです。神の体現者です。そうなると出来事メッセージということがわかるし、人間も神の子として、神のように現実の動きが言葉になり、意思表示になり、思ったり行ったとおりに現実が動きます。

イエス・キリストやブッダは、そのようなところにまで到達した存在でした。少しずつでも自分の思いと言葉と行動と現実の動きが一致してくるように、励んでください。神との調和、さらに神との一致、ONEを目指して。

リーディングを終了します。

(ありがとうございました)〈了〉

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Reader:ヨハネ・ペヌエル

浅野 信
新時代がすでに始まっています。このコーナーでは、ARIのオリジナル・リーディングのうち、時事の問題や未来予測に関するものを特にピックアップして掲載しました。

目的は、新時代の留意点を述べ、その方向性を示すことです。内容には、いわゆる「予言」も多少含まれています。

「予言」と言いますと、世間一般では、どうしても暗くて恐い、人々を威嚇するような否定的予言が多いのですが、真の予言はそうではありません。

私が世に示したいのは、希望の指針です。“どうなるか”という予測や透視的診断よりも、“どうなると良いのか”、“そのためにはどうすると良いのか”といった対策です。さらには、その際の心構え、知恵、それ以上に思いやり、配慮の大切さなどについてです。

これは難題や厳しい現実に目をつむったり、軽く捉えることではありません。むしろそれらをさえ生かす方向で意欲的に取り組むことへのお勧めです。

今のような難しい大事な時世に、このメッセージ・リーディングをご自身のため、また愛する大切なご家族、友人、さらには社会のために、どうぞご活用ください。