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受容と改善の関係

2013.4.19 リーディング No.13304

質問ARIでは受容することの必要性が強調されます。受容が成長であると言われます。その一方で、起きた事を反省し、教訓を学び、改善し、現実に対処することの必要性も強調されます。学んで改善することが成長であると言われます。囚われるなとも言われます。両者は矛盾するように思えますが、わかりやすくご解説ください。

ソース:表面上の文字による説明だけを聞くと、受容の面と学んで改善する面とは、相矛盾するように聞こえるかもしれません。そのため、頭が混乱してしまい、一体どっちが本当なのか、どのように現実に応じたら良いのか、困ってしまうことが起きる場合があります。
しかし、言葉による表現や説明によって示されている内容そのもの、また事実そのものに入っていくと、実は両立しないのではなく、両者はむしろ補い合う関係にあること、また、同時進行で事が起きることに気づいてきます。

事実そのものは一つであり、その中にいくつかの側面が含まれているし、また同じ一つの事も違った形で説明されることだってあるのです。ここにも、対極をアウフヘーベン、統合するONEがあります。これには体験が必要です。それにより、言葉によって説明されているものの内容がわかります。わかるだけでなく習得されてきます。このためにこそ、転生し、神に訓練されているのですし、教えと行・実践が共に必要なのです。

心や命の世界に関することは、説明を聞いて終わらせるのでなく、頭で理解した上で実際に行ってみることが必要です。実際に行って試していくこと。そして体験し、さらに会得すること。そして会得したらそれを生活に応用し、役立てていくこと。人々にも知らせ、このONEの真理を教えてあげることです。

このように自分で実験し、確かめられ、習得もされたなら、それを生活に活かしていく。こうして自分の中で、それが確かであり役立つことがわかったなら、今度は人にも教えてあげて、他の人もそれが使えるように、導いたり助けたりしてあげると良いのです。そういう事を日頃学んでいます。

受容する面は、消極的否定的な面です。改善する面は、積極的能動的肯定的な面です。このどちらも正しく、必要なのです。ここで否定面、肯定面と説明しましたが、否定面が悪く、肯定面が良いという意味ではありません。ちょうど電気にマイナスとプラスがあるように、マイナスとプラスのどちらも欠かせないで、両者によって一つの働きを為すようなものです。

一枚の紙やカードにも、必ず表と裏があります。表が良くて裏が悪いということはありません。むしろ日本では、「お蔭さま」「縁の下の力持ち」などと表現されるように、背後で支える力がありがたいのです。霊的世界も「目に見えない世界」などと言われ、神さまは目立たず背後で支え、人を育て導いてくださっています。両親はその最たる存在です。キリストもそれをよくわかっておられたからこそ、最後に弟子たちの足を洗ってくださったのです。社会で何か行う場合も、後援などと言って後ろ盾となる個人や会社や団体があります。人は目立たない背後で支えられることがありがたいのです。

宗教でも「否定神学」と呼ばれる宗教があります。これも悪い意味ではなく、否定というのは、神さまや奥深い真実が否定的表現でしか説明されない面を、積極的に打ち出す、神さまの学問が否定神学です。空とか無とか、あるいは絶対無とかなどです。般若心経はよく知られている否定神学です。禅の公案もそうでしょう。

キリスト教のほうでも、エックハルトや十字架のヨハネは否定神学であり、肯定的に言葉で表現することでは、重要な真実や神の本質が示されないということで、「神は闇である」とか「言葉では説明できない」とか「苦や悲しみや孤独が大切である」などと言われるのです。それによって神さまや奥深い真理の、通常の言葉では表現しきれない部分を、消極的な形で表し、指し示します。

親鸞の教えも典型的な否定神学です。絶対他力であるとか、悪人成仏であるとか、悪や苦しみの積極的な意義が強調され、大切にされます。これが人を癒し、安心させ、漏れ落ちた面を拾い、人を救うのです。「善人なおもて往生をとぐ、いかにいわんや悪人をや」、この表現などは否定神学の極みです。浅野語録シリーズも、また最近では五木寛之氏が無力(むりき)を提唱し始めたことも同様です。

そういうことで受容が否定面、改善が肯定面という場合、成長には二つの側面があって、否定面と肯定面のセットでONEです。両方に目を留め、両方を行っていく。対照的な二つの面がそれぞれ生きて機能することで初めて、滞りなく成長が行われていきます。人は反対意見や逆境からも学べるのです。

受容という否定的消極的な面は、実は表現ほど消極的否定的ではなく、むしろかなり積極的でパワフルです。ちょうど他力が活動的でパワフルで肯定的なようにです。「自力でなく他力だ」と言うと、一般に「他力本願」などと使われるように、投げやりで自分の責任を果たさず、努力もしない、行動もしない、そういう半端なあり方がイメージされがちです。しかし絶対他力ほどパワフルで活動的で責任を引き受ける立派なあり方はありません。勇気と思いやりと力と行動が必要です。

そのように、受容という場合も、消極的受身的で、非活動的なものではありません。受容には勇気と力と決断と実行力が要ります。受容の反対は、認めない、許さない、受け入れない、自分は悪くない、相手が悪い、だから自分は変えないというものです。一種のこだわりであり、独善的で、反省、謙虚さ、柔軟性がありません。成長がなく、カルマも解けず、対立、争い、戦いをもたらします。

成長しないと受容できません。受容することは実は大変なことなのです。覚悟が要ります。理解も要ります。器が要ります。受容は寛大で寛容な人ができることです。いい加減な人には受容はできません。回避したりごまかすこととは異なります。どんなに自分にとって不利だったり嫌でも、また苦手でも、事実を「そういうものだ」と理解して認めること。否定したり拒否したりごまかしたり逃げたりせずに、事実を認め、受け止めることが受容です。これは相当、力と勇気と覚悟がないとできないことです。

自分の非を自ら認め、事実を受け止めて責任を取ることが受容です。ごまかす人は受容できません。ここで自己否定が起き、成長し、カルマが解消し、事態を乗り超え、改善が見えてきます。回避しようとしたりごまかしたり、逃げようとする人、自分を肯定化し人を責めて終わらせようとする人は、受容できていません。

責任を取ることが受容なのです。それでカルマも果たされ、それぞれの感情のトラウマも解消し、和解でき、乗り越えられるようになります。器が大きくなると、受容できるようになる。事柄や相手と和解する。そして相手を支え、成り立たせ、考慮できる。平和的な手段が受容です。利他愛の表れです。

聖徳太子が述べた「和を以(も)って貴しとなす」、これは受容の精神です。攻撃的で狭い心の人、自分本位で人を配慮できない人、自分の非を認めず責任を取れない人は、受容できません。受容には愛と勇気と力と行動力が要るのです。責任を取って対処していく始まりが受容です。

いろいろ起きてくるのは、直接は、自分の過去のカルマに基づきます。自分の非を認め、自分が作り出したことを認め、事実を受け入れて対処していく方向に向かうのが受容です。それで初めて周りも納得してくれて、自分も覚悟が定まって、現実に対応する態勢ができてきます。教えはひとえに、状況がその人次第であることを理解させて、受容できるような態勢を作らせるためにあります。受容できないから解決しないし苦しいのです。自分の信念や観念や、周りへの恐れに囚われています。

般若心経は「囚われるな、心を解放せよ」ということを説いています。真理を知ることで自由になり、楽になり、救われるのです。広くは大乗仏教、さらに原始仏教も含めて、仏教は「囚われるな」ということを説いています。「事実がなぜそうであるのか」を理解して、認め、受け入れることで、心が自由になる。カルマも解消する。それが囚われを脱した状態です。心が楽になります。周りと共存できます。平和的です。受容すると和解でき、相手を支え、成り立たしめられます。自分への囚われから脱する勇気と力が要ります。相手本位です。利他愛が受容をもたらします。

そのようにしてまず態勢ができてきます。そして「なぜこうなったのか」よく検討して、まずい所に気づいて、その非を認め、謝罪し、反省し、教訓を学んで、調整したり改善を図る。そして現実にも対処して、問題の解決を図ったり、事態を収拾させたりする努力をする。そのようにして責任を取ることが行われます。それが学んで改善する積極的行動的な面です。

「受容だけでいい」とは言っていません。まず受容です。事態を観察して「なぜこうなったのか」を理解し、納得し、認め、受け入れる。そして「なぜこうなったのか」、その問題の非を認めた上で、謝罪したり、責任を取る行動に向かう。そして現実に対処して問題解決を図る、問題になっている部分を調整したり、改革したり、改善する。自分にしても、周りの状況にしても、手を加えて調整したり、改善を図って、良くしていく。これもあくまで受容した上で、責任を取っていく形で行うことです。

事態を認めない、受け入れない、あるいは自分の非を認めない、自分の責任を認めない。そういうままで現実から求められるままに対処しても、うまくいきません。中途半端です。被害者意識に囚われたまま行うだけです。あるいは形式的なだけです。それでは本当には責任を果たすことにはならず、形式主義で通り一辺倒の対処で終わり、本当には教訓を学んで改善することになりにくいです。そもそも自分が悪いと思っていません。そういう人は成長しにくいし、周りから見てもすっきりしません。世間でも多く見られることです。

何か問題が生じた時、人前に出て頭を下げる。頭を下げること自体は必要で良い事なのですが、本当に悪いとは思っておらず、社交儀礼で事態を収めるために仕方なく頭を下げているとしか見えません。だから周りは納得せず、モヤモヤが残ります。本人も人前に出て、頭を一応下げているのですが、本当には下げておらず、形だけのものです。本当に悪くて詫びているとは見えません。だから人は何か、頭を下げられても納得できず、すっきりしません。

まして神さまに対して謝罪したりお祈りをする場合はなおさらです。神さまの前で形式主義は通りません。ダビデ、ダニエル、親鸞、タウラーらの、心から悔い改め、深く懺悔(ざんげ)することの確かさ、大切さがあるのです。本当に悪いと思っておらず、自分の非を認めない、それが受容ができていないということ。

世の中は表向きの行動だけで動いているのでなく、目に見えない奥にある心や魂で動いているので、表面的に頭を下げたり問題に対処して行動していても、心の奥で自分の非を認めず、どこか「仕方ないな」と思って相手を責める気持ちもあるままに、「役目だから仕方ない」と言わんばかりに、現実に対応していても、本人に成長がなく、教訓を学んで本当に改善したり成長したということがないので、なかなか事態が収束せず、わだかまりが残ります。

心から事態を受け止めて、「そうなんだ」と深く了解し、「だからこうなったんだ」と納得して、そして自分の間違っていたことにも気づいて、その事を素直に認め、心から頭を下げることが受容です。そこでカルマが解けていくのです。成長したからです。本人の心が清らかになってきたからです。心から「悪かった、自分がまずかった。だからこれを招いた。だから謝罪する」。そして責任を取るべく対処していく。それでこそ本当に、表面だけでなく奥深い部分も解けていき、人々も神さまも納得し、受け入れてくださって、許され、乗り越えられ、問題が収束するのです。それが心の世界を学んでいるということです。

「起きた事がなぜそうなったのか」、振り返ってよく検討し、間違っていた所やまずかった所に気づいて、起きた事から教訓を学んで成長を遂げ、現実にも対処して改善させていく。自分のことも良くしていく、調整もしていく。事態や周りをも改善したり、手を加えて良くしていく。問題点をなくしていく。そのようにして責任を果たしていく。そのことが必要です。

受容というのは、内面的な事に属します。心の学びをしているのですから、まず心の奥で受容の起きる必要があります。受容できるためには成長する必要があります。また、なぜこうなったのかを検討して、因果関係を知り、「なるほどそれでこういうふうな事態を招いたんだな」と、法則や教えを学んで、こうなった理由や背景を知って、理解し納得すれば、事態がどんなに不利で自分にとってつらいものでも、受け止められます。そうすると責任を果たす方向に向かったので、カルマが解け始めます。周りの人たちもそれを察知して、許してくださります。神さまにも許されます。実情を認め、受け止め、体験し、対処して解決を図って責任を取ることが、カルマを果たすことになるのです。

そのようにしてよく検討をして調べ、「何がどうまずくてこうなったのか」「どうしてこういう事態を招いたのか」を理解して、反省し、こういう困った事態を招いた元にある欠点や無理解やマイナスの習性に気づいて、そこを改めていく。あるいは癒されない部分があったら、その部分を神さまに癒していただく。そのようにして手当てをして修復するように、この際取り組む。そのようにして成長を遂げていけます。

必ず何か原因があるから、それに応じた結果が出るのです。原因がなくて起きることはありません。起きる事は結果であり、原因が過去や奥深い所にあって、原因と結果は釣り合っています。状況や出来事は結果であることを知って、原因が自分たちにあることを潔(いさぎよ)く認めるのには、勇気と強さが要ります。弱い人やちっぽけな人は事実を受容できません。パワフルで本当の信仰と愛のある人、責任を取る構えのある人、思いやりの人は受容できます。半端な人や卑怯な人は、事態を認められず、ごまかしたり逃げるので、受容しません。

受容できることが人間としてとても大事なのです。受容できたらもう解決も間近です。その受容が難しいのです。だからこそ、受容できるように導くのが教えであり、リーディングなのです。受容できたら楽になり、事態も解決や収束に向かいます。心から納得して受け入れられるように教えが与えられると言っても良いほどです。受容できさえすれば、後は現実に対処して改革したり、問題の解決を図るばかりです。

「なぜ事態がこうなったのか」を調べて、その元にある問題や欠点に気づいて、その部分を改善したり癒したりしてあげること。そして自分を修正したり良くしていくこと。それが学んで改善することに当たります。その一方で受容ということも、できるようになってきます。自分の非を認めて改善へと向かうわけです。まずかったと認めるから、レッスンを学んで成長することに取り組めるし、現実にも責任を取るべく対処していくのです。

受容してから、教訓を学んで現実を改善していくのです。受容しないままでやっても偽善であり、周りに見せているだけで、演じているだけです。それでは本当の効果がなく、責任を取っているとは言えません。「本当は自分は悪くないぞ」と思っていて頭を下げて、被害者意識を抱き、周りを何とか収めて逃げようとしている、そういう人が世の中には多いのです。本当には非を認めておらず、教訓を学んで成長したり、改善するということをしていません。

また本当に物の道理がわかれば、なぜこうなったのかを知って、事態を受け止めて対処していく、そして教訓を学んで成長を遂げて、その部分を通過していける。それによってそれ以上その事を恐れたり、囚われたり、自分や関わった人を責めたりをし続ける必要はなくなります。中途半端で解消しないまま引きずるから、あるいは未練を残すから、囚われて、留まってしまうのです。引きずってしまうのです。そういう囚われを脱するために、真理を知ること。深く物の道理を認識することで、囚われから脱せられます。「あぁそうなんだ」と教訓を学んで成長を遂げれば、囚われから脱せられます。

自分の間違った信念や固定観念や決めつけ、そういったものから自分を脱せさせるのが、空の真理です。このように実際は「囚われるな」という仏教の基本的な教えと、受容と、現実的に検討して教訓を学んで成長を遂げ、自分のことも周りをも改善し、問題を解決していくこと。それらは複合的に、同時進行で補い合い、助け合い、一つの事として進んでいくのです。

実際に行ってみると、それほど複雑ではなく、うまくいく時は必ず、それらがうまく噛み合って、同時進行で起きているはずです。習得すれば複雑でも難しくもなく、自然にできます。それは車の運転でも、何かを行う場合でも同じでしょう。説明を聞くと複雑で、こんがらがってわからなくなってしまいますが、一つ一つやって覚えて身につけば、他の事を考えたり、隣の人としゃべっていても、車の運転が自然にできるのと同じです。ですから練習と体験と会得が大事なのです。

本当に身について行えている人は、受容の教えを聞いても、「囚われるな」ということを聞いても、よく検討してごまかさず、きちんと対処することや、起きた事から教訓を学んで成長を遂げ、改善を図ることなどが、矛盾ではなく、同時進行でそれらが起きており、それぞれの面が欠かせないことがよくわかります。

ただ人によって、どの部分が特に苦手かというのは異なるので、特に「囚われるな」という所を強調する必要がある人はいます。その一方で「受容しなさい」ということに意識を置いて、取り組む必要のある人がいます。また一方では、学んで改善し、事態をよく観察して検討し、「なぜこうなったのか」を知って教訓を学んで、この機会に自分を正し、あるいは癒し、成長を遂げる。それ以上は囚われず、その事で自分を責めたり、関わった人を責めたりしないようにすることが、必要な人がいます。そういうことで教えがいろいろに説かれるのです。

自分のパターンを知って、教えのどの部分が自分にとって必要で有効なのか。どの部分はほぼ習得してできているのかを、知るようにしてください。「自分は特にどういう部分が苦手で、まだできていないのか」、それを見ていくことです。行いながら次第に習得され、補われ、自分の中でうまく足並みが揃ってきます。

現実に起きる事は、神さまがそのように人を育て、仕上げるために起きてくる効果的な事です。神は教育者なのです。神は親の面と教育者の面、スポンサーの面など、いろいろな面をお持ちです。自分がどういう部分が足りず、どういう部分はできてきているのか。それは今世のこれまでの数十年来の歩みを検討すれば、よくわかります。また自分の勘を働かせ、自分の心を覗いていけばわかります。また現状を見れば、ほぼ察しがつきます。それが内観とジャーナルの作業です。

どうせ行わねばならない学びへの取り組みなら、気持ちよく、楽しく、快適に行っていってください。それが工夫であり、自分や周りに対する配慮です。それでこそ長続きし、成果も上がります。またお互いに関わりの中で学びに取り組むと、お互いに気づき合い、協力し、助け合って学びに取り組めます。

今回は受容と、学んで改善する面と、無執着という自由の面、空の真理、それらを改めてここで学ぶことができました。これを参考にまた、ONEの学びや、人生に活かしていってください。

リーディングを終了します。

(ありがとうございました)〈了〉

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Reader:ヨハネ・ペヌエル

浅野 信
新時代がすでに始まっています。このコーナーでは、ARIのオリジナル・リーディングのうち、時事の問題や未来予測に関するものを特にピックアップして掲載しました。

目的は、新時代の留意点を述べ、その方向性を示すことです。内容には、いわゆる「予言」も多少含まれています。

「予言」と言いますと、世間一般では、どうしても暗くて恐い、人々を威嚇するような否定的予言が多いのですが、真の予言はそうではありません。

私が世に示したいのは、希望の指針です。“どうなるか”という予測や透視的診断よりも、“どうなると良いのか”、“そのためにはどうすると良いのか”といった対策です。さらには、その際の心構え、知恵、それ以上に思いやり、配慮の大切さなどについてです。

これは難題や厳しい現実に目をつむったり、軽く捉えることではありません。むしろそれらをさえ生かす方向で意欲的に取り組むことへのお勧めです。

今のような難しい大事な時世に、このメッセージ・リーディングをご自身のため、また愛する大切なご家族、友人、さらには社会のために、どうぞご活用ください。