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自分への愛と自己否定

2013.5.11 リーディング No.13324

質問ONE の教えにおいて、自分を愛することの大切さが説かれています。しかしその一方で、成長のためには自己否定が必要だとも言われています。自己否定が利他愛をもたらし、カルマ解消、事態改善につながると説明されます。それでも自分を愛してよいのでしょうか。自分への愛と自己否定による成長との関連性をご説明ください。

ソース:自分を愛することと自己否定は一つです。矛盾はありません。ここにもONEが見受けられます。つまり、自分を愛することと自己否定は、同じ一つのことなのです。

常識的表面的論理的に見ると両者は矛盾に見えますが、根本の所で一致し、一つとなって働きます。それでこそ、本当の自己否定であり、本当の自分を愛することになります。また次のようにも言えます。弁証法によれば常識的な自分を愛することがテーゼであり、そこを打破し、自己否定するのがアンチテーゼです。そこを通って、本当に自分を愛するというジンテーゼが実現してきます。そこに葛藤や恐れや産みの苦しみが伴います。

通常の生のあり方がテーゼ、それを自己否定して本当に生きるということが神と繋がって実現してきます。その場合「自己そのものの否定」と言うより、「犠牲や代償を伴う自己誕生」と言えます。考えてみれば人生はそのように動いています。試練や苦しみや悲しみを手続きとして自分が練り上げられ成長し、そこでカルマが解消し、事態を乗り越えられ、次のあり方がもたらされるのです。

利己性を含んだ表面的な自分を愛することと自己否定は、テーゼとアンチテーゼで拮抗し合いますが、本当に自分を愛することと自己否定は拮抗し合わず、完全に一つです。

表面的に自分を愛するということはエゴや利己性であり、これは本当には自分を愛したり大切にしていません。自分のためになりません。自己保守です。人は恐れや誤解から自己保守に回ります。世間で争いや対立や訴訟が起きているのは、このような世俗的な自分への愛です。それは仏教やキリスト教で戒められています。それを勧めているのではないのです。

ただ、世間的な自分を愛することと、本当に自分を愛することとは連続している部分もあり、本当につらくて大変な時は、わかって受け止めてあげるということで、無条件の愛が必要となってきます。その時はたとえ利己性や法則に対する誤解から生ずる恐れがあっても、そういったものも、「なぜそうなるか」をよくわかって、それすらも認めて受け入れて支えてあげるということでは、まだ課題多き利己性を含んだ自分への愛さえも受容し、現状を支えて癒し、育て導くということはあります。

そして徐々に徐々に本人が気づいて、余力が生じてきたところで、本当の自分への愛に向かっていけるように、見てあげたり関わってあげるということをします。その意味では、たとえ間違った一般的な自分を愛するということさえも認めて、受容してあげることが必要なことがあるのです。世間では手厳しすぎて、耐えられない場合があるからです。

間違った自分への愛にしても、それ自体はよろしくはないのですが、そのようにならざるを得ない状況とかレベルとか、またつらさがあるのですから、そういうことをよくわかって認めて支えてあげることが、まず必要になってきます。世間一般では、手厳しすぎて、育てるどころか本人を潰しかねません。判断や裁きが横行しています。そういう中で人は生きていられません。自暴自棄に陥ったり、反社会的な行動や犯罪に出ることも起き得ます。

イエス・キリストさまの場合、間違ったことを是認してしまったのではなく、ただそのようにならざるを得ない状況とかレベルとかカルマとか理由があることを洞察して、気持ちを汲んで、そういう不完全なあり方さえも認め、受け入れて支えて癒してあげるということを、まずしてくださったのです。

ただ事実だけを見て、「良いことは良い」「悪いことは悪いからダメ」、そういうことはイエスさまはなさらなかったのです。よくわかって優しく応じたので、人は支えられ、次に向かっていけたのです。それで人は癒され、かろうじてもつことができ、次に向かっていけました。

育てるということが大事です。そのためには現状でもつことができ、潰れないことが必要です。そのような意味では、事実がどうであるかということで、良いか悪いか判断して、「良いことは認め、悪いことは認めず、変えるまでは許さない」という、常識的法律的なやり方だと人は潰れざるを得ず、育ちません。おかしくなってしまいます。

そういうことで、自分への愛はまず、初歩的レベルの人たちに与えられる教えです。そして現状で癒され、かろうじてもつことができ、余裕が出てきたならば、少しずつ自己否定の大切さを教え、自己否定をしながら、自分への愛が本物化し、利他愛に向かっていけるように、成長が起きるように、見たり関わってあげるという教育になってきます。

今大変で、成長や改善どころではない人にそれを求めるのは酷です。それができれば最初から苦労しません。うまくいっていない、そして非常につらい人に、成長とか改善をいきなり求めるものではないのです。それでは潰れてしまうか、おかしくなって自暴自棄に陥ったり、反社会的行動に出かねません。

人を救うことが大事なのです。それを人にも自分にもしてあげるべきなのです。それゆえまだ利己性を含んだ問題のある自分への愛であっても、方便としてそれを認め、支持してあげることから始まります。あまり最初から成長だとか、改善だとか、自己活用だとか、自己否定だとか、そういうことは言わない。求めないことです。

自分の場合でも人に対する場合でも、よく状況や状態を見て関わらないと、人はもたず、潰れてしまうかおかしくなってしまいます。長い時間をかけて相手のレベルや様子や状態を見て関わってこそ、少しずつ良くなり、苦境を脱せられます。そこで自己否定ということも必要だということを教え、本人が理解でき、自己否定もできるようになってくると、自分への愛が本物化し、成長し、それに応じてカルマも解消し、事態も改善するようになってくるのです。

非常に重い病で死にかけている人には、救急の応急処置を施すことが、まず必要であるのと似ています。今大変な人にいきなり健康だとか、働くことだとか、社会貢献だとか、「人を思いやりなさい」とか、「自分を反省して直しなさい」とか、死にかけている余裕のない人にそれを求めるのは不適切で、効果的でないのと似ています。

精神的な面の教育においても同様です。相手をよく見て、何ができ、何が効果的なのかをよく見極めて関わってこそ、少しずつ良くなり、立ち直り、そこで初めて次のレベルに求められる自己否定とか、改善とか反省とかができるようになるし、理解して受け入れられるようにもなるのです。

自己主張し、自己保守で動くあり方を反省して、自己否定し、自我が解消し、より良い自分が形成されてきます。自分の本質の命を愛し大切にすることが、自分への愛です。自分を責めすぎないことです。

ONEにしても、全託にしても、超作にしても、親鸞の言う絶対他力にしても、その中には自己否定が含まれています。本物の教えには必ず自己否定の面が含まれています。肯定だけでは、改善も成長もカルマ解消もありません。現状維持に終始しています。テーゼとアンチテーゼを経てジンテーゼが生み出される。ジンテーゼがONEです。アンチテーゼは現状の否定であり、死です。これまでのあり方を一度否定する。その時に死や悲しみやつらさが生ずる。

しかしそこで浄化され、カルマが解消し、そこで教えに基づいて神さまを信じてお委ねすれば、神さまのお力を頂いて引き上げられ、神さまと繋がらせていただいて、次のあり方がもたらされる。そうすると以前よりもより良い状態がもたらされ、本当に生きたものとなる。
自分への愛の質や内容やレベルの場合も、この三段階を経て、よりONE化していくのです。愛も広がり、健全になり、利他愛が出てきます。

ONEにしても、愛にしても、知恵にしても、直観にしても、無数の段階とレベルがあることを知ってください。何度も弁証法の三段階の手続きを経て、より本物化し、レベルを上げていく。そのために多くの人生経験を経ていったり学習したり修行を重ねていくし、複数の人生を生きていくのです。そして最後に本当に宇宙創造神との完全な合一に至ります。それがONEの極致です。

イエス・キリストさまのように最終のレベルまで来られて、本当に余力があり、他者を思い、自分の状態をわかっておられる本当に強いお方だからこそ、アンチテーゼのところで、文字通り自分を投げ打って死ぬことができたのです。鞭打ちの刑にも耐えられました。それを回避せず進んで身に受けたのです。それはイエスさまが相当のレベルまで来られて、強いお方だったからそれだけの試練を引き受けられ、耐えられたのです。

本当にアンチテーゼで死ぬことができた。つまり自己否定が徹底したからこそ、その後ジンテーゼで復活が実現したのです。それで無数の人々を支え、育て導くことができる存在になりました。

宇宙創造神ほど自己否定の存在はありません。無であり空です。無私です。つまり私心がありません。相手本位に動かれています。私心がない、エゴがないというのは、自己否定の極みです。そうであるからこそ相手になりきり、知恵も働き、相手がどういう状態かがわかって、それに合わせて応じて働くことができるのです。全き愛のあり方です。

自分を思わず、全く相手本位に動ける宇宙創造神ほど、自己否定の存在はないのです。それが純粋な愛です。エゴがないからです。それが本当の愛と知恵をもたらします。それで全部が成り立っていられるのです。成り立つだけでなく、育て導かれているのです。

自己否定が気持ちよく、知らず知らずのうちにスムーズになされる工夫が、ここで必要になってきます。非常に厳しい形で道を通っていかざるを得ないか、それとも気持ちよく比較的スムーズに産みの苦しみを通っていくかということです。そのために教えや祈りがあるのです。

常日頃から自発的に教えを学んだり、お祈りを捧げたりしていることで準備態勢ができ、通らねばならない道を、比較的抵抗少なく通り抜けていくことができます。安産になるか、難産になるかです。そういう配慮はあってよいし、あったほうが良いのです。自分の場合も、人の場合も。

自己否定は必要だし、自己否定は起きます。実際人生はそのように動いているので、カルマが解消し、成長を遂げ、浄化され、次のより良いあり様がもたらされていく。つまり育成され、成長しつつあるわけです。自己肯定というのは保守であり、現状維持であり、他を考慮せず、自分をそのまま保って留まり続けています。それでは成長し育成され、命の本源に還っていくとか、神さまと合一するとかということはありえません。

「自分は自分、人は人」という区別がそこにはあります。自分の世界だけに身を置いて変わりようがない頑固さであり、融通が利かず、相手の話を聞かず、取り入れようともしません。改善や成長の余地がない、自己肯定です。より良く変わっていくという中には、実は自己否定が働いているのです。

ありがたいONEにしても、全託にしても、超作にしても、絶対他力にしても、実は知らず知らずのうちに自己否定が作用していることを知ってください。要はそれが、気持ちよく知らず知らずのうちに起きているかどうか、それともつらく起きざるを得ないかどうかです。そこで工夫や配慮が必要になってきます。上手に通り抜けていくようにするのです。

どうしたって起きるべきことは起きます。それが必要で、身の為だからです。それでカルマが果たされ、浄化され、成長を遂げられ、次のあり方が訪れるからです。ただそれが非常に苦しい形で起きてしまうか、起きるには起きてもそれほどつらくなく、それを受容しながら解消へと向かって、次のあり方がもたらされるかどうかの違いがあるのです。それがより良い形で自発的主体的に、自ら進んで通り抜けていくように、リーディングや教えや祈りがあるということなのです。

また次のようなことにも気づいてください。自己否定という場合、良い意味の自己否定と悪い意味の自己否定の二種類があるのです。一般には「自己否定」と言うとあまりよろしくないイメージです。そのため「自己否定が必要だ」と聞くと、身構えたり、怖くなったり、逃げたくなったり、疑問を感じたり、「自分は耐えられないし、そんな教えはおかしい」と、感じたりする場合もあります。

悪い意味の自己否定とは、投げやりな自己否定です。自暴自棄などです。自分の価値を疑い、自分を大切にせず、愛してあげていません。それは自殺行為です。つまり、悪い意味の自己否定を実行すると自殺となります。自分の為にもちろんなりません。

一方良い意味の自己否定は、他者の為に身を投げ打って献身し、他の人の為に尽くしてあげることです。良い意味の自己犠牲です。献身的に人の為に動いてあげることです。これが超作です。そうすると結局は、それが自分の為にもなるのです。それを当てにしたり期待しなくても、そうなるのです。正しい自己否定は、本当の自分への愛に支えられてあるのです。

むしろ自分の為ということを期待したり当てにしないほど、自分の為になるのです。それが超作であり、無漏善(むろぜん)です。行っても新しいカルマとならず、古いカルマを解き、行うほどに解脱と自由と神へと向かいます。本当に相手に対する愛と神への信頼があれば、それほど抵抗なくつらくなく、むしろ喜んでそのようにできます。神さまや相手の前で自分をなくし、自分を喜んで他の為に捨てることができます。

仏教でも進んでお寺や三法――三法というのは仏・法・僧のことですが――三法の為に自らを捨てることを喜捨(きしゃ)と表現しています。喜んで捨てるわけです。そこでエゴが解消し、自分の罪が許され、カルマが解消し、自分が浮かばれ救われていくのです。

「相手が良くない」「相手が悪い」「自分は何も悪いことないから改めない」「相手が誤ってくるのを待つ。それまで相手を許さない」。このような反省のないあり方は、好ましくないほうの自己肯定です。自己肯定にも、良い意味の自己肯定と悪い意味の自己肯定があるのです。良い意味の自己肯定が本当に自分を愛し大切にすることです。仏教やキリスト教でいけないと言っているのは、悪いほうの自己肯定です。つまり利己性やエゴのことです。良い自己肯定まで抹殺してはなりません。

家庭でも社会でも、集団の中において、人のことを思わず自分のことしか考えないで動いている人が増えるほどに乱れ、収拾がつきません。そういう社会は成り立ちません。相手を思い、配慮し、調和し共存する。それでこそ成り立ちます。そこには自己否定が健全に機能しています。それぞれが自分勝手に自分のことだけを思って動いていたらバラバラであり、秩序が保たれず、集団社会は成り立たないし、組織は壊れざるを得ません。

悪いほうの自己肯定を仏教やキリスト教や常識は、また法律も、戒めているわけです。良いほうの自己肯定はむしろ必要で、それが本当に自分を愛するということです。自分の為に自己否定があるのです。

ただ先ほど説明されたように、悪いほうの自己肯定と良いほうの自己肯定は、自己肯定という点で共通しているので連続しています。要するにレベルの問題です。悪い良いという表現を使いましたが、レベルの差です。より本物化していく過程を辿っていくのです。

癒され、育成され、調整され、学んで成長を遂げるほどに、自己肯定の質や内容や状態が良くなって、本物化していく。そうすると超自我という形で現れます。本当の自分、なるべき姿の自分です。それゆえイエスさまは、 " I am." と言われました。「私である」と。モーセに現れた神は " I am that I am." と名のられました。「私はありてあるものである」と。神さまはそのように超自我を表明されました。

神さまは私心がない、エゴがないので、他の人になり得て、自分から自由で、柔軟に相手に応じてあげられるのですが、本当の自我はあるということです。自我がないと個人として成り立たず、生きていけません。ただ、自分をなくするほどに相手の為になれるし、相手を感じられるし、知恵も働きます。また自分がなくなるほどに、神さまが自分の中に入ってきてくださり、神さまと一つとなれます。相手とも一つとなれます。

例えばエドガー・ケイシーのように自分を捨てて神さまや相手の人に同調できるのが得意な人は、自分を捨てて相手に成りきることが、すごく得意なのです。そういうエドガー・ケイシーは、前世で自殺しています。自暴自棄になって自殺したことがあります。悪いほうに出たわけです、自己否定が。うまくできない形で出た場合です。その時に自殺となります。投げやりで自暴自棄になります。それは自分の為にならず犬死です。自分が死んでも何の足しにもなりません。人の為にも自分の為にもなりません。

そういう悪い意味の自己否定は、とても勧められません。そういう自己否定を勧めている教えではないのです。意味のない自己否定です。しかし良い意味の自己否定があるのです。そして自己否定の場合も、悪い意味の自己否定と良い意味の自己否定は連続していて、悪い意味の自己否定を基に少しずつ良い意味の自己否定が行われるように、神さまに育て導かれていくのです。

例えばエドガー・ケイシーの場合、自己否定が得意でした。ただ自分が未熟なうちは投げやりになり、自殺までしました。自殺できるぐらい自己否定の面を潜在的に持っていた魂だったのです。

そういう特質の魂であったからこそ、神さまに鍛えられ、して良いこととして良くないことを経験を通して学習するほどに、かつて犬死に近い自己否定が、次第にうまく機能するようになっていきました。それによって最近の前世であるジョン・ベインブリッジの時、他の人の命を助けるために、自分の命を投げ打ちました。かつての意味のない自殺という代わりに、他の人を救うということの為に自分の命を捧げることができたのです。

それでエドガー・ケイシーとなって生まれ変わり、「リーディングの時毎回死ぬ」ということで、相手に完璧に同調したり、一番の基で神さまに同調し、時にはミカエル天使に同調し、自分を完全になくしてリーディングをすることができるにまで、上手に自己否定ができる存在に育てられたのです。もともとの自己否定好きのタイプが見事に開花し、十分に活かされるにまでなれたのです。割と簡単に自分を捨てたり、自分を脇に置いて、神さまや相手になりきり、一つになれるのです。

そういう人はリーディングなどが得意だし、また普段でも相手の気持ちを汲んで、自分を脇に置いて、相手の気持ちを察し、相手本位に関わって見てあげられるので、相手が助かり、相手が支えられます。「本当にこの人にはわかって、受け止めてもらえている」と、相手は感じられます。それが純粋な相手思いの愛の人です。

ヨハネによる福音書の中には、「友の為に自分の命を捨てること、このような犠牲を伴うことほど大きな愛はない」と記されています。友の為に自分の命を捨てる愛を行った者とは誰でしょう。その典型がイエス・キリストでした。多くの人たちの為に犠牲になり、十字架にかかって亡くなったからです。自己否定が最高の形で起きたのです。

神さまに向けて自分を投げ出す。無条件降伏をする。そうすると犬死にはならず、最高の形の自己否定になります。自分を捨てることで自分から自由になり、空の状態になっていきます。その時神さまと融合します。

人の為にその人が助かるように自分を投げ打って、進んで人に献身的に尽くしていることほど、美しい感動的な姿はありません。人はそういう場面に感激し、何かを感じ、自分も動いていきます。純粋なのです。自分を思わず相手だけを思っています。それで相手は支えられ、成り立ち、助かるのです。

そのように困った人の為に自分を投げ打って、ただただ純粋に「相手を」と思って、自分を思わず、ひたすら相手に尽くしている時、神さまがそのように動いている人に入ってきてくださるのです。そしてそのように相手の為に動いている人自身も清められ、引き上げられ、救われていくのです。

神さまと一つになれる。相手の人とも一つになれる。そのような人は聖者です。神の人です。本当に人を救ったり、助け、人をわかって相手の為に動ける人は、このような自己否定が上手であり、自己否定の面が活かされています。本人の中で苦痛はなく、むしろ喜びです。愛そのものが自己否定だからです。本当に自分のことを思うという場合も、つまらない部分の自己否定が起きているわけです。それによって良い意味の自己肯定が、自分の中でできてきます。

悪いほうの低いレベルの自己肯定は、正当化です。先ほど説明されたように、「自分は何も悪くない。だから反省も謝罪も改めることもしない。」「相手が一方的に悪い。だから相手が誤ってくるべきだ。相手が改善するべきだ」。このような融通が利かず、エゴの塊のような存在が地獄に行くのです。それが100%の極(きょく)に達した存在は、神さまに消されることもないとは言えません。

誰でも反省や謝罪、利他性、「自分がすまなかった」「改めよう」「良くなりたい」「救われたい」、そのような思いがあります。その良き思いが自分を支えているのです。それで生まれ変わっても来れるのです。本当にエゴだけの塊の存在は、悪そのものです。そういう存在は生まれて来たくても、人間として生まれて来れません。

人間としてともかくも生まれて来れたということは、反省や柔軟性があり相手を思う気持ちがあり、自分の中に「すまなかった」という思いがあり、「人を配慮し、人の助けになることもしよう」という、そういう思いがあるから神に許され、他者の為にもなれるので、人間としてこの世に出て来れたのです。成長し、カルマを果たし、世の為になれるチャンスなのです。

ですから、そういう利他性をますます発揮し、自己否定が無理なく、ほど良く、自分の中で起きてくると良いのです。神さまや他の人の為に、そして本当の意味で自分の為に。そういう部分が前面に出れば、自己否定ということがつらくない形で知らず知らずのうちに起きています。

真っ向から「自己否定しなさい」と言うと抵抗があるし、つらすぎます。そしてうまくいかないことも多いです。苦行や荒行などの修行はあまり効果的ではなく、意味のない場合もあります。自分がやりたい苦行を行っていたり、ただ自虐的な苦行、人に見せるパフォーマンスなどは、意味がありません。それで釈尊も6年間苦行をしましたが、意味がないと悟って止めました。

釈尊が6年間に及ぶ苦行を止めた他の理由は、そのような苦行の目的が遂げられ、自分が十分に浄化され、鍛えられたので、これでもう十分と捉えて、苦行を止めたこともありました。本当の修行で効果的なのは、実人生で起きてくることなのです。それこそ本当の修行です。なぜなら神ご自身がお手入れを加え、その時点でその人に最も必要で避けてはならない、そして効果的なことを、神が人生で起こしてくださるからです。

それゆえいつでも目の前のことを、置かれた状況で受け止めて対応することこそ、本当の修行になり、自己否定が起きているのです。あまり自己否定しているつもりはなくても、そうなっています。

ただ、反省がなく、「改善したい」とか、「良くなりたい」という思いがない人にとっては、そういう人生の経験はつらいことでしょう。生きづらいはずです。受け入れ難いからです。「何でも自分の思い通りにしたいし、それが幸せだし、成功だ」などと捉えている人にとっては、人生はつらいものとなります。

しかし他者を思い、本当の意味で自分を思い、「良くなりたい」「人の為にもなりたい」という思いを抱いている人にとって、人生で起きてくることはそれほどつらくはなく、為になることがわかり、進んで受け入れて応じられます。そういう時はちゃんと、必要な自己否定が起きているわけです。

神さまは一人ひとりを見通して、より良い形で取り扱ってくださっておいでです。本当のことの場合、何らかの形で自己否定が起きています。だからカルマが解けるし罪も許され、自分も許され、自分が浄化され、育成されて、より良いあり方になっていけるのです。肯定と否定がうまく入り混じって、本当のものがなされていきます。

自己否定は愛の裏側です。愛を支える側面です。自分が良くなっていく成長の面です。愛の厳しい面です。一方、自分を愛するというのは、自己肯定であり、愛の優しい面、真理の優しい面です。

愛の優しい面と厳しい面がうまく手を取り合いながら進んでいけるように、自分や相手の状態や目的をよく見てあげて、それが同時進行で起きるように取り組んでいってください。「本当に今つらくて潰れそうだ」、また「周りから厳しくされすぎた」、そういう人には徹底的に自分を愛し認め信じ、自分に優しくすることを教えてあげてください。そういうことが今その人には必要だからです。

そして本当の意味で自分を愛するということは、やはり必要で大事なことなのです。仏教やキリスト教では、そういう本当の自分への愛、良い意味の自分への愛さえ「よろしくない」と見なして、悪いほうの自分への愛と一緒に葬り去ってしまった。そこが宗教の犯してきた問題です。そこから本当の自分を愛するという面を取り戻し、復権し、一人ひとりを救出する道が、自分を愛しなさいというメッセージです。

リーディングを終了します。

(ありがとうございました)〈了〉

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Reader:ヨハネ・ペヌエル

浅野 信
新時代がすでに始まっています。このコーナーでは、ARIのオリジナル・リーディングのうち、時事の問題や未来予測に関するものを特にピックアップして掲載しました。

目的は、新時代の留意点を述べ、その方向性を示すことです。内容には、いわゆる「予言」も多少含まれています。

「予言」と言いますと、世間一般では、どうしても暗くて恐い、人々を威嚇するような否定的予言が多いのですが、真の予言はそうではありません。

私が世に示したいのは、希望の指針です。“どうなるか”という予測や透視的診断よりも、“どうなると良いのか”、“そのためにはどうすると良いのか”といった対策です。さらには、その際の心構え、知恵、それ以上に思いやり、配慮の大切さなどについてです。

これは難題や厳しい現実に目をつむったり、軽く捉えることではありません。むしろそれらをさえ生かす方向で意欲的に取り組むことへのお勧めです。

今のような難しい大事な時世に、このメッセージ・リーディングをご自身のため、また愛する大切なご家族、友人、さらには社会のために、どうぞご活用ください。