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超作の仕方

2015.3.13 リーディング No.14171

超作についていろいろと教えてください。よろしくお願い申し上げます。

ソース:人間は生命体である以上、生命エネルギーを使って何かをしています。それによって周りに影響を及ぼしています。自分自身にもその影響は及びます。つまり、行うことによってその傾向が強化されたり、弱まったりするという影響が、自分自身にも及びます。そればかりでなく、行うことで周りに影響を及ぼしたことが、いずれ遅かれ早かれ自分自身に返ってくるということでも、自分に影響が及びます。

行うことがその時点のその人を表していることは、知られています。しかし、その人が体験させられることまで、その人自身によることまでは、一般には認められていません。しかし出来事が起きたり、状況に見舞われたりすることで体験させられることも、その人のその時点のものを表しているのです。なぜなら、行ったことで周りに影響が及び、それが周りからその人に返ってくるからです。それが状況や出来事であり、体験させられることです。カルマの作用と反作用の法則です。

行ったことは行ったままで済まず、周りに影響を及ぼすことで、それが周りから自分に返ってきて、それ相応の報いを受ける。カルマの因果応報の法則です。原因は自分の中にあり、原因が自分の中にあると、それに見合う縁を招き、縁をきっかけとして原因が発動して結果が生じ、結果が生ずることで報いが与えられる。それによってカルマが果たされ、成長を促され、気づきと改善と責任を果たすことを、神さまから求められる。

このようにして、本人が作ったカルマを使って、神さまが教育し、育て導かれている。それが現実の動きや状況です。ひとえに神の愛に基づく人間教育です。体験学習に特徴があります。そのために地上に何度も転生受肉してきます。

人間は自由意志が与えられ、自分で考え、意図して行います。そのために個人差が生じ、カルマが作られるようになっているのです。動物までは、生命体ですが機械的自動的な行動です。本能に根差す反射的な動きがほとんどです。善悪の倫理が動物の場合は生じません。そのため動物は行うけれどもカルマにはなりません。単純なカルマらしきものは動物にも作用しますが、やはりカルマは人間固有のものです。

人間を超えた存在にも、ある程度カルマは生じます。しかし人間のような人間固有のカルマは次第に脱却する方向に向かいます。個体である以上、自分を意識し、自分を保とうとして行えば、人間以上の存在でもカルマは生じます。カルマは自分の有利になるように、自己保持のために生命エネルギーを使うことで生じます。それは全体のためではないので、偏っており、反作用を招きます。不都合なことが生じて、苦痛や悲しみがもたらされます。それが典型的なカルマです。

人間は実際に体でもって行動することによるばかりでなく、心で思ったり意図したり強く念じたりイメージする、それによってカルマが生じます。いわゆる意業と呼ばれる心のカルマです。また、言葉を使ってカルマが生じます。語業と呼ばれるものです。心で行うカルマ、言葉によるカルマ、身体的な行為によるカルマ、この3つがあります。

たとえ休んでいても心は動いているので、カルマが生じます。何もしなければカルマができないということではありません。消極的なカルマ、怠慢というカルマも作られつつあります。もちろん休んでも良いのですが、しなければならないことを怠っているということはカルマになります。義務を果たしていませんから。周りも困ることになります。また、何もしなければ学びにならず、過去のカルマを果たせません。生まれてきた目的や役目も果たせないままです。

行いは、善業と悪業に分けられます。善悪の基準は愛にあります。命を損ねることが悪業です。愛のない業(わざ)です。命のためになることが善業です。これが愛です。それゆえ善業と悪業を分ける基準は、愛があるかどうかによります。それゆえ仏教の戒律でも、ユダヤ教の律法でも、「進んで善を為し、極力悪を控えよ」と説かれるのです。

キリストは煩瑣(はんさ)で形式的になってきた意味のない、人を縛るだけの律法から人々を解放し、本当の愛の基準をシンプルに打ち出しました。日本でも親鸞が同様のことを行いました。仏教の煩瑣で形式的で、あまり意味を成さない戒律から人々を解放し、本当の愛と信仰と真実の基準を提示し、それにシンプルに生きることを勧めました。

時代や地域によっても、「何が善で何が悪か」が変わってきます。また本来、基準は外にあるのではなく、一人ひとりの中にあり、個別的具体的なはずです。それを見分けて行うのが方便の知恵です。「自分はこの置かれた状況で、こういうことをするのが必要だと思える。逆に、こういうことはしないほうが良いと感ずる」。そのように、魂の良心に自分の行う基準があるのです。自分の傾向や課題やカルマや役目、そういったものも考慮して、「置かれた状況で何をどのように為すか」ということが見えてきます。

ところが律法や戒律は形式的で一律で、あまり意味を成さず、融通が利かず、実際的ではありません。それにしても大まかには、モーセ以来の律法や仏教の戒律にも、参考になるものがあります。それゆえ「悪業を極力慎み、善業を進んで為せ」。これはやはり正論です。ただそれを現実や個人に当てはめる時には、バリエーションに富むものにならねばなりません。戒律や律法が人を縛ってはなりません。

結局、「周りに良い影響を及ぼし、好ましくない影響は及ぼすな」ということです。それが周りのためになるばかりでなく、周りから自分に返ってくるので、自分自身のためにもなるのです。そのように法則を設け、神さまが人に「何をして良いか、何はしないほうが良いか」を教えてくださって、育て導かれているのです。

生命体である以上、生命エネルギーを使って生命の営みが為されます。そうするとそれが自分を形成するばかりでなく周りにも影響を及ぼし、それが周りから自分にも返ってくる。それがカルマの因果応報です。現実に起きることは全てこれです。人は自由意志を与えられ、新たなカルマを作りつつあるのです。同時に古いカルマを摘み取りつつもあります。それが現実に起きることで果たされつつあります。神がそのように計らわれます。

役目を果たすこと、カルマを果たすこと、責任を果たすこと。この3つは深く関連し合っています。「悪業を極力控え、善業を進んで為す」。善業というのは使命や具体的な仕事や義務です。また義務でなくても、すると望ましいこともいっぱいあります。ボランティアとかご奉仕とかはそれです。通りを歩いていて困った人がいたら、声をかけて手助けすることなどもそうです。そういうことは進んで行いましょう。困っている人がいたら声をかけたり、協力的になりましょう。

「極力悪を控え、進んで善を為す」。これが基本ではあるのですが、このままでは善悪二元論であり、ONEではありません。まだカルマのうちです。カルマの世界です。カルマを超えた神の世界、純粋な霊と命の世界には、これだけでは到達できません。悪業を作らず、善業をどんどん作っていく。これはとても大事で基本的なことなのですが、これだけでは良い境遇は得られても、また良い人にはなっても、カルマを超えた世界に解脱していく、命の本源に還っていくことは叶わないのです。善と悪は相対的であり、絶対的な神の世界にはそれだけでは還っていけません。

そこで「超作(ちょうさく)」というのが登場します。超作というのは、本当の善業です。善悪という相対的な二元論を超えた、本当の善業、絶対的な善業です。完全な行い、神の行い、聖霊の働きです。自我に基づかない、全体に捧げられた思いと行いです。自分のことはあれこれ思わずに、行うことで周りの役に立ち、全体が支えられるように行いに徹することです。

そのような本当の完全な行い、本当の善業を「白業(びゃくごう)」と名づけることができます。白い業と書きます。もはや業ではないのです。自分のためだけに自分の生命エネルギーを使わないのです。しかしもちろん悪いことをするのでも、無意味なことをするのでもなく、本当の善業なのです。相対的な善業を超えた、絶対的な善業を「白業」と言います。それが「超作」です。神さまがなさるように行うことです。

こういう種類のことが超作で、別のこういう種類のことは超作ではない」。そのように善業対悪業のように、行為の種類によって分けられるものではなく、どういう行いであっても本人の心がけと行い方次第で超作になります。逆に、どういう良いように見えることでも、心がけや行い方によっては超作になりません。「霊的なことや宗教的なことをするから超作になる」ということでもないのです。

もちろん霊的宗教的なことをすることは尊いのですが、超作になるか超作にならないかを分かつ基準は、その心がけと取り組み方によります。それによってどういう行いでも超作になり、逆にどんなに普通に見ると良い行いや聖なる行いでも、超作にはなりません。大事なことは行為の種類を選ばず、置かれた状況で、その時自分がするべきことやすると良いことを、「超作になるように心がけて為す」ということです。このように「超作かどうか」は、行為の種類によるのではないのです。

ではどのようにすると、「単に善業を積む」というレベルを超えて、善業も悪業も果たし、カルマを超えた世界に行けるのか。「善業を積む」のと、カルマを超える道である「超作」は違います。もちろん超作は良い行いなのですが、普通の良い行いを超えています。悪業ばかりでなく善業をも果たし、カルマを果たすだけでなく、カルマを超えさせることが超作の狙いです。そのためには「意図とか執着を振り切って、するべきことにただ徹する」というようにするのです。善業はまだ人間的な営みです。超作は神の働きです。本当に純粋で、人間の思惑や意図を超え、人間の計らいがありません。

親鸞が「絶対他力」「自然法爾(じねんほうに)」と名づけたものです。自力作善(さぜん)を超えた自然な営みです。それでこそ、善業も悪業も果たされ解けていき、いつしかカルマを超えた世界へと引き上げられていきます。人間的な思惑や執着を捨て、行うほどにカルマや物的世界から脱却し、本当の自由が得られ、周りを活かし、支え、育て導く働きを為し始めます。

自分がその時するべきことに無我夢中で徹すること。行うことと一つになって行うこと。行うその内容と一つになる。また人と関わる場合は相手の人と一つになる。周りと溶け合う。いちばんの基では、神と一つにならせていただいて行われていく。超作はONEの行いです。ONEを行いに移すと、それが超作となるのです。当然超作をすればONEになっていき、カルマが解消し、カルマを超えた世界へと向い、この世の呪縛から解き放たれ始めます。それによって、この世をも活かし、成り立たせます。

こうして真の自由と平安が得られ、神さまのように自由に、本当に良いことや望ましいことを行えて、周りを支え、活かし、育て、成り立たせる働きを為します。「人事を尽くして天命を待つ」「自力を尽くして他力を待つ」「自力と他力さえ超えてONE力(りき)、一力(いちりき)へと向かっていく」。周りと一つになって行われる本当の愛の行いであり、それによって周りが成り立ち、支えられ、活かされ、その人の超作によって周りが恩恵を受けます。神の働きの一部なのです。もはや普通の個人の善業を超えています。

個人の善業は、どんなに良い行いであっても、個人主体であり、まだ個というのが残っています。それでは完全に脱却しきれず、純粋ではありません。やはり個を保つための営みなのです。依然として個によって為されています。そういった自分がなくなり、全体のためになる働きが超作です。自分から自由になる方向での動きです。自分を思わず、相手や全体のためにとひたすら本務を行う。自分=カルマです。たとえ良いカルマでもそうなのです。

行うだけ行って結果に縛られず、結果に左右されず、行うだけ行って結果は天から授かったものと捉え、どういう結果がそれによって出ても左右されず受け止めて、結果から自由であれば、行うほどにカルマがほどけていきます。どんなカルマもほどいていく営み、しかも新しいカルマともならない営み。それが超作です。それによって周りが助かり、潤い、支えられ、成り立ちます。本当の愛の行いです。もはや行う人の個人を超えています。結果として本人自身のためにも本当になります。

表面的には依然としてその人が行っているものの、実質的な働きの面では、その人を通して神が働かれているため、その人のためだけの行いではなく、全体のためになっている働きです。個人が主体で人間的に行われているものを超え、神さまがその人を通して働かれ、周りが支えられ、活かされます。

その人個人が人間として行っている限り、どんなに良いことでも善業です。一方超作は、行いの主体が神です。しかも多神教の相対的な神々のレベルではなく、全体神、根源神、そのような根本のお方が行いの主体になっており、その人を通して神が行われる。その人は通路になっている。そうすると行った結果がその人には行かず、神さまに行きます。行った行為の主体者に行った結果は帰属するからです。それゆえ自分が行わなければ、自分に行為の結果は返ってきません。自分を保つために自分に与えられた生命エネルギーを使っていないからです。

行いから自由になり、行うほどにカルマが解けて、物の世界を脱却し、純粋な霊の世界、神の世界へと還っていくようになるのです。行うほどに自分を捨てて、自分から脱却し、自分から自由になり、個というものがなくなって解体していく。そのようにして神さまに融合し、還っていくのです。こうしてONEが実現します。

「わが意志にあらず、神のご意志のとおりになりますように」「神に従い、神に委ねる」「もはや私ではない、私は死んだ。私は日々死んでいる。そして私の中で私に代わって神が生きておられ、働かれておられる」「もはや私ではない、私を通して神が生き、働かれている。自分を通して神が働かれ、神の御業を遂行し始めている。神と私は一つである」。これが超作です。聖霊の働きです。

しかもそれを日常の、自分がするべきことを通してそのように為すのです。例えばお掃除をしたり、残務処理をしたり、人付き合いをしたり、散歩をしたり、仕事をしたり。どんなことをする場合でも超作で行うように心がけるのです。そうすれば、するべきことを通してカルマが果たされ、新たなカルマにはならず、するほどにカルマから自由になり、周りを支え、活かし、成り立たせる働きとなります。

当然自分のためにもなりますが、自分のためを思いません。ただ行われるだけにするのです。思惑を持たず、行うだけにする。それが超作です。するべきことをただすれば良いのです。あれこれ思わない、人間的に計らわないことです。人間的な計らいを捨てています。

親鸞は「無碍(むげ)の一道(いちどう)」と表現しました。妨げや障(さわ)りのないONEの道、一道です。「非行(ひぎょう)非善」とも、親鸞は表現しています。普通の行でもなく普通の善でもない。非行非善です。また「非僧非俗」とも自らを表現しました。「自分は普通の僧侶ではない、もちろん俗人でもない」、それが超作の生き方です。

親鸞は「絶対他力」とか「往生浄土」とか、いろいろに表現することで、超作を説いていたのです。親鸞の念仏は超作の念仏だったのです。イエス様も、特に『ヨハネによる福音書』の中で超作になっています。使徒ヨハネは、『ヨハネによる福音書』の中で超作を説いているのです。

一般の行いだと、どんなに良い行いでも、古くて好ましくないカルマを果たしつつ、その一方で良いカルマを作りつつあります。そうするとそれはたとえどんなに良い行いでも、将来を拘束することになるため、それだけでは物の世界を超えていくことは叶わないのです。もちろん「悪を控え、良いことを進んで為す」これが基本線ではあるのですが、行うことで良いカルマにもならず、古いカルマを果たしつつ新たなカルマにならない、それによってこそカルマを脱却し、カルマから自由な解脱が生じるのです。

ブッダもキリストもそれを行ったので、人間を超えられて涅槃に至りました。まず、「悪業を控え、善業を進んで為す」ように心がけてください。次に超作を心がけてください。このようにして霊的成長が図られ、生まれてきた目的を、神さまのお心の方向で滞りなく遂げて、命の本源に向かっていけます。

周りのためになり、周りを思いやり、本当の善業である、また究極の善業である超作で、日々の行うべきことを神に祈りつつ神のご助力で果たしていきましょう。これが命の本源に還る道です。そして地上に神の国を実現させる行い方です。

今するべきことに徹してください。中途半端では超作になりません。十分に尽くしてください。行うことと一つになって為されるように。自分の思惑とか意図を超えて、ただ行うのです。そうすれば行うほどにほどけていって、自由になっていきます。周りを支える行いになるのです。その中で自分も浄化され浮かばれていくことでしょう。
リーディングを終了します。

(ありがとうございました)〈了〉

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Reader:ヨハネ・ペヌエル

浅野 信
新時代がすでに始まっています。このコーナーでは、ARIのオリジナル・リーディングのうち、時事の問題や未来予測に関するものを特にピックアップして掲載しました。

目的は、新時代の留意点を述べ、その方向性を示すことです。内容には、いわゆる「予言」も多少含まれています。

「予言」と言いますと、世間一般では、どうしても暗くて恐い、人々を威嚇するような否定的予言が多いのですが、真の予言はそうではありません。

私が世に示したいのは、希望の指針です。“どうなるか”という予測や透視的診断よりも、“どうなると良いのか”、“そのためにはどうすると良いのか”といった対策です。さらには、その際の心構え、知恵、それ以上に思いやり、配慮の大切さなどについてです。

これは難題や厳しい現実に目をつむったり、軽く捉えることではありません。むしろそれらをさえ生かす方向で意欲的に取り組むことへのお勧めです。

今のような難しい大事な時世に、このメッセージ・リーディングをご自身のため、また愛する大切なご家族、友人、さらには社会のために、どうぞご活用ください。